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快適さからも自由になれたら〜 Svaha Book Club vol.2(課題図書『自由への手紙』オードリー・タン)を終えて




自由には責任が伴うとよく言われる。誰かから強制されるのではなく自分の意思や本性に従うことが自由の定義だとすると,自由に生きて後悔しないためには勇気と知恵が必要だ。勇気と知恵を支えるのは仲間や学識や経験など,誠実さと努力が不可欠だということになる。


ある意味では失敗したら誰かに強制されて生きるほうが全然ラクだ。誰かのせいにすればいいのだから。今の日本はそういう空気が強いな,というイメージがある。


この本の目次は以下の通り。

Chapter1 格差から自由になる
Chapter2ジェンダーから自由になる
Chapter3デフォルトから自由になる
Chapter4仕事から自由になる


いずれも自分だけで解決できる問題ではないけれど,それでも自由になろうよと呼びかけてるのは,台湾のコロナ政策で一気に有名になったオードリー・タン。優しい笑顔と長身がトレードマークのノンバイナリーの天才だ。知らない人がいないというよりも,日本でも多くの人が好意を抱いている様子が窺える。

さて,Svaha Book Clubはいつも自己紹介からスタートしている。参加者はひとり1回必ず質問をするのがゆるーいルール。これはキャリアコンサルタントでヨガ初心者のスヴァーハの運営メンバーのひとり,さっちゃんからのリクエスト。質問をするためには聞くことが求められる。場の空気づくりに一役買っていると思うけれど,毎回話題がきな粉に集中するのはなぜなのか…。

今回は遅刻で入ってきた方がいたので,今後はあとで入ってきた人のために自己紹介ログを取るべきか迷う。zoomのチャットは入ってくる前のものは見えないからなあ。まあ入ってきた時に自己紹介して貰えばいいか(誰かいい案があったら教えて)


知り合い同士もいちいちやる全員の自己紹介を終えて,次はまた各自が印象に残ったパートを紹介する。そこですぐにディスカッションに入らずにまずは紹介していくことにしているのは,人によってはディスカッションしているうちに自分で話すことがなくなるという事態の回避でもあるし,何より多くの人が前の人の話と絡めて話をすることができるからである。


怒りという蛍光ペン


さて,この著書の中にはこんなセクションがある(アンダーラインはスヴァーハによる)



不平等を知ったとき、人の心にはあらゆる感情が湧き起こります。

とりわけ怒りの感情は、あっという間に伝播します。言ってみれば、きわめて高い実効再生産数をもち、〝感染しやすい〟のが、怒りです。

市民は不平等によって引き起こされた怒りを、共有せずにはいられません。

怒りは拡散しやすく、増大しやすい──でも私は、この現象自体は、悪いことだとは思いません。

社会の構造的問題や、表面化させる必要のある問題に、人々の関心を向けさせるためには、怒りはすこぶる有用な蛍光ペンです


ある方がこのパートを印象に残る部分として挙げたときには,他の参加者からも共感の意見が上がった。実はわたしも同じ箇所に印をつけていた。

怒りは強いエネルギーなので適切に使うべきだ。そのまま消耗して無力感に支配されてもいけない。ちょうどこの後のセクションが「無力感も格差を広げる」というタイトルだったけれど,本来その流れを組んで考えるべきところだとは思う。ただし「ヨガの先生は怒らない・怒ってはいけない」というアホみたいな迷信(ここ15年くらいの)がまかり通っている中では少し違う。


迷信というかミームみたいなものだろうか。ミームとは脳に保存され,他の脳にコピーができる情報であると定義される。なんでそんなことができるのかというと他の脳と神経が繋がってるわけではなくて,それがヒトにとって自然に理解できる内容だからと言っていいだろう。

だから,ヨガの先生が自分で思うだけではなくて,ヨガを練習している人も,ヨガをしたことない人ですら「ヨガの先生ってなんか怒ったりしないんでしょ?」と漫然と思っている。疑問に思わないケースも多々ある。自然に理解できることが正しいとは限らないが,多数決的にそういうことになっている。だからひとりでは『ヨガっぽさ』から自由になることすら困難なのだ。



例えば,個人的に最近怒りに震えたといえば(いっぱいあるけど)LGBT理解増進法案について自民党内の会議で反対意見が出たことで国会への提出が止まってしまったというニュースがあった。自国の代表とされる人たちがこの調子であることを情けなく,恥ずかしいと思う。


LGBT理解増進法案の件では保守派議員が差別禁止の文言を拒否したことが報じられた。代わりに「理解増進」にとどめようとしたというのだから愚かにも程ある。差別が何から生まれるか知らないのかな~,差別は無知と無理解から生まれるんです~。


そして無知や誤った認識が何をもたらすかをヨガを学ぶ人なら知っているだろう。「苦しみ」だ。わたしはずっと誤った認識や無知が生んだ苦しみは自分へと降りかかるものだと思っていたけれど,実際は別の誰かを苦しめることもあるのだ


誰かが別の誰かを苦しめていると気づいたら,救いたいと考える自然なことではないだろうか。つまり誤った認識を正そうとするのは自分のためでもあるし,誰かのためでもあるし,やっぱり自分のためでもある。見て見ぬふりをしたところで,あとに残るのは何もしなかったという無力感くらいのものだろう。


しかし「怒ってはいけない」と本気で思っていたらこのようなニュースからも顔を背け続けなければ身が持たないのではないだろうか。



ポジティブ・フリーダム


見て見ぬふりが良策ではないことはこの本の中では全編で語られているが,初めにの一節で非常にコンパクトな言葉でそれが語られている。



自由には2種類あると、私は思っています。

ひとつは、ネガティブ・フリーダム。

もうひとつは、ポジティブ・フリーダム。

「ネガティブ・フリーダム」とは、既存のルールや常識、これまでとらわれていたことから解放され、自由になること。「個人として何かから自由になること」と言ってもいいでしょう。

ネガティブといっても否定的な意味ではありません。いわば消極的な自由であり、これが自由への第一歩です。

そして「ポジティブ・フリーダム」とは、自分だけでなく他の人も解放し、自由にしてあげること。


このパートを印象的だったところとして挙げてくれた参加者は,ヨガを学んで自分はネガティブ・フリーダムまではある程度進んで来れたけれど,ポジティブ・フリーダムな行動に出たことはあったかと自問したという。率直な感想だと思う。


ヨガの思想を学ぶと形骸化した社会の規範や固定概念から多少だけども距離をとって過ごすことができるようになる。今まで気に病んでいたことが些細なことだと受け取れたら幸福だ。だからそれ以上に重要なこともいっそ些細なことと受け止めてしまおう,世間の雑事に煩わされずに生きていこう……ということになると話は違う。その閉じた幸福は本当の幸福だろうか。

例えばたくさん瞑想をして目には至福の光景が写っていても,身近の地獄に知らんぷりなのは,その背中が焼け爛れるほどの苦しみを背負ってる(のに気づかない)だけじゃないの?

自分が生きている世界をシカトして自分だけサマーディ♡みたいなのって,ただの現実逃避じゃないの?


「ヨガインストラクターは怒らない」というミームに侵されていると,社会の不正義について触れ,考えることはリスクでしかない。最初はそれでも構わないけど,どこかで目を覚まさなければ苦しみが取り除かれることはない。ポジティブ・フリーダムを目指す方が得策なのはヨガ的に解釈しても自然な成り行きだ。



「快適さ」からさえも自由になれたら


それってどういうこと? という議論が飛び交う読書会は魅力的だと思う。1回目はそういう感じで進んだ。ただ今回はちょっと様子が違っていて,様々なパートが挙げられるたびに共感が増していくようだった。


家族から自由になる。国家から自由になる。一枚岩から自由になる。等々。


共感の意見が出るたびに,誰かがカメラの中で頷くたびに,これほどまでにわたし達はありとあらゆるものに縛られていたのだなあと思ってしまう。その中で出てきた印象的な参加者の言葉が「当てはめることの快適さ」という一言だ。


わたしはこういう者ですよ,あなたはこういう者ですよ,我が集団はこういう集団で,あなたの集団はこうですね…と決めてしまえれば話は単純だろう。もちろん「傾向」はある。だけど傾向から外れること,つまり「例外」があるのは全く例外ではない。例外があるのは当然なのだ。


当てはめる快適さは,わたし達を縛る何かから自由になろうとする気持ちの足枷になり得るということを忘れてはいけない。ちなみにヨガのアサナは「快適で安定していること」が最も重要なのだが,快適で安定する状態に持っていくには常に変化している自分の状態を毎回観察してそれに合わせて微調整してやることが必要である。実は毎回違うフォームなのだ。


社会は個人の集まりでもあるので,プラマイゼロになることもあれば,変化量が断然大きいこともある。個人では制御不可能に見えるけれど,社会は個人の集まりでもあるのだと思い出せば勇気が湧くのではないだろうか。社会は個人で制御するのは権力者であっても難しい。だけど,何かから自由になるとき誰かと一緒ならできることもあるはずだと思う。


世界の各地で保守傾向が高まっている様子が窺える昨今ではあるけれど,常に立ち位置を調整し,時に一歩踏み出していこうねみんな! と思う充実の1時間半でした。

最後に付け加えておくと「怒りは蛍光ペン」の部分を上げてくれた律子さんは日本初のヨガインストラクターの労働組合を立ち上げた人だ。無力感に敗北せず,行動に移している人がこのパートを選んで言及してくれたことに感謝したい。行動で示せている人の言葉だから説得力が違う!と感じました。



ご参加くださった方も,記事をお読みいただいた皆さまも,一緒に少しでも自由になれれば幸いです。そのためにスヴァーハができることはまだまだいっぱいありそうなので,これからもマイペースにがんばります。



今回読んだ本 『オードリー・タン 自由への手紙』講談社

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課題図書『失われた賃金を求めて』イ・ミンギョン著,小山内園子・すんみ訳(詳細 7月25日(日)16:00- オンライン開催 ▶︎Newsで詳しく見る











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